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2018/02/07

バオ・ダイ

バオ・ダイは、1954年にゴ・ディン・ジェムを首相に任命したが、ジェムは1955年にバオ・ダイを引きずり下ろすために国民投票を実施した。その結果、ジェムは勝利し、ベトナム国を共和制へと移行させ、ベトナム共和国を樹立してその大統領に就任した。

廃位されたバオ・ダイはフランスのパリへ亡命したが、その後はベトナムへ帰国せずにカンヌ付近で余生を送る。1972年にはベトナム戦争の終結と南北の和解を呼びかけていた。1997年7月30日にパリの陸軍病院で死去した。

バオ・ダイ

2018/02/04

カイディン帝

1916年、11代皇帝ズイタン帝(タインタイ帝の子)が宗主国フランスを排除しようとしたために廃位され、レ・ユニオン島へ流刑となってしまったので、フランスによって12代皇帝に擁立されることとなり、年号を「啓定」と定めた。





調べるほどに、イロイロ問題のあった人物と思われる。面白いなあ歴史って。




カイディン帝 より)

フエ

フエベトナム語: Huế / )は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン=フエ省省都である。19世紀から20世紀にかけてベトナムに存在していた阮朝の首都に定められていた。

フエはフランス語風にユエと呼ばれることもある[1]。フエの漢字名の「順化(トゥアン・ホア、Thuận Hóa)」は、14世紀陳朝が設置した順州・化州に由来する[2]。二つの行政区画のうち、かつてフエの町が属していた「化州」の漢字音hoá)が転訛して、町はフエと呼ばれるようになったと考えられている[1][3][4]。フランス植民地時代にトゥアン・ホアを訪れた外国人は、町を「スェウナ」「スィネア」「シネア」と呼んでいた[5]

一部の歴史的建造物がユネスコ世界遺産(文化遺産)に、また宮廷芸能であるニャーニャック(雅楽)が無形文化遺産に登録されている。

フエの市街地と郊外には阮朝時代の王宮、皇帝廟、仏教寺院および遺跡が多数残されており、その中の一部は「フエの建造物群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

  • 安定宮 - 啓定帝(カイディン帝)の離宮として使われていた建物。バオ・ダイの即位まで皇帝の住居として使用されていた。
  • カイディン帝(在位:1916年~1925年)の廟の意匠にはバロック様式の影響が見られ[54]、廟の内部の壁と天井は磁器やガラスで装飾されている[55]。バロック様式だけでなく、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院、キリスト教寺院の特色が見られ、西洋と東洋の建築様式が混合した建物になっている[55]。内部には金箔が貼られたカイディン帝の銅像が置かれ、像の約9m下に皇帝の遺体が安置されている[55]

    Wikipediaより)

ホイアン

ホイアンベトナム語: Hội An / 會安: Hoi An)とは、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナン市の南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町である。人口121,716人。ヨーロッパ人にはファイフォ 、フェイフォ(Faifo) と呼ばれたこともある[1]。中国人街を中心に古い建築が残り、1999年平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。



チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエ広南阮氏政権が樹立されると、その外港となった。ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。



16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。1601年には広南阮氏は、徳川家康書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。朱印状による約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。ホイアンには大規模な日本人街中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど、繁栄を誇ったが、間もなく江戸幕府の鎖国により、日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。



17世紀後半、清朝鄭氏台湾との対立から遷界令が出されたことは、さらにこの地域の交易を停滞させ、一時期の繁栄は失われていった。1770年代には、西山(タイソン)党の乱によって、町は完全に破壊されたが、やがて再建され、19世紀まで繁栄した。しかし、ホイアンと南シナ海を結ぶトゥボン川に、土砂が堆積して川底が浅くなった結果、大型船の往来に支障を来たす事となり、国際貿易港としての繁栄は、ダナン港へと移行した。



一方で、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。Wikipedia より)




8月革命

ベトナム八月革命(ベトナムはちがつかくめい、ベトナム語: Cách mạng tháng Tám / 革命𣎃𠔭)は、1945年8月17日に始まった、ベトミンが総蜂起してベトナム帝国阮朝)を倒した革命である。



この革命の結果、ベトナム民主共和国が成立したが、日本軍(枢軸国)に勝利したフランス軍(連合国)によるインドシナ再植民地化によって血みどろの抗争となり、第一次インドシナ戦争にもつれ込んだ。





1944年には、フランスのヴィシー政権は崩壊し、アジア・太平洋における日本の敗色も濃くなってきた。 ベトナム駐留日本軍(第38軍)は1945年3月9日、明号作戦を発動してフランス植民地軍を攻撃して武装解除し、インドシナ植民地政府を打倒した(仏印処理)。すると、フランスの庇護で生き延びた阮朝は、日本への恭順を宣言し、ベトナム帝国を樹立した。





8月23日にはフエ、25日にはサイゴンでも人民蜂起によってベトミンが権力を奪取し、26日にはホー・チ・ミンがハノイに入った。そして8月30日、フエの保大帝(バオ・ダイ)は「退位勅書」を発して退位を宣言した。そして、日本政府がポツダム宣言に調印した9月2日に、ホー・チ・ミンはハノイ市内の大広場で大衆集会を開催し、ベトナム民主共和国独立を宣言した。こうして、1945年9月2日に阮朝は崩壊した。



Wikipedia より)






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